2020/08/19 21:07

僕が沖縄本島北部の小学校に通っていた、80年代初頭。
日本への復帰から数年が経ち、経済的にも文化的にも日本本土に追いつきたいという思いが沖縄全体に満ち充ちていた時代。
僕は幼いなりに、地元の人々が沖縄的なるものを恥じて隠したがっているような印象を強烈に感じ取っていた。
運動会の開会宣言で慣れない標準語をなんとか絞り出すPTA会長。
近所のおじさん達は泡盛なんて臭いと避けてウイスキーを常飲していた。
三線弾きはアシバー(遊び人、放蕩者を意味する方言)と言われ、世間から冷たく見られていた。
その一方で、舶来文化のフォークギターは人気だったようだ。
それから幾年月。旅行会社のキャンペーンや本土出身歌手の『島唄』の流行という日本本土からの承認を経て、沖縄の人々に地域の文化を見直す気運が高まる。
僕が初めて三線を手にしたのは、件の『島唄』発表から3年遡る。
その少し前から、僕はなんとなく三線が欲しいと口にしていたようで、近所のおじさんが造っているのを知った母が3年分の誕生プレゼントをまとめてあげると言って、買い与えてくれたのだった。
それは蛇皮ではなくプラスティック製の胴で、見た目も質の高い物ではなかったけど、使っているうちに棹だけが良い色になってきた。
どうやら地元の銘木だったようだ。
その1点豪華主義の棹の真価を見せつけられたのは、自分で働くようになってから三線店で本蛇皮の胴をつけてもらい、その足で公園の芝生に座り調弦を終えたその時だ。
芝を舞散らかした風が三線を撫で、どこまでも澄んだ優しく豊かな倍音が僕のとても深いところへ届いてきた。
音が大きいということではなく、それはまさに人の心の深いところへするりと到達する波だ。
僕はその三線でライブを重ね、アルバムを造った。
あの三線を造ったおじさんは好き嫌いとこだわりが強く、僕もしょっちゅう言い合いする仲だ。
そんな性格もあってだろう、何年も田舎にこもっていた。
『最近はもう作りたくなるような木がないさ、同じ手間ならヤナー(良くないものの意味)は触りたく無い』
若い頃は東京で企業製品モデルを創る仕事をしていたおじさん。
他の職人に『これはどうやって造ったかわからんさ』と言わしめる程の腕だ。
僕は彼に仕事をして欲しかった。
結果、木材を4百キロ買って造ってもらった三線は肌触りが良く手の運びがなめらか。
そしてもちろん音が良い。
すぐに売れなくても、自分で弾いてるだけで得したと思える。
その4百キロの木は、宮崎へ演奏へ行った際に見つけたイスの木。
主に静岡以西、沖縄まで分布しており、日本産の木材中で比べると三本の指に入るような重い材で、フローリングなどに使われる。
重い上に硬いにもかかわらず伸びのある音が特長的だ。
同じく、三線としても出回っているフィリピン産の真っ黒い黒檀は、見た目は良いが僕の知る限りにおいてガラスのような硬さで、音も硬く余韻に欠ける。
外国産の木材では、白黒がはっきりと模様になっている縞黒木は良く鳴る。
木の鳴りや木目、蛇皮の質や手掛けの布に使う藍染など、僕の好みを隅まで反映した楽器を青山のギャラリーで展示販売した時。
初めて買ってくれたのは沖縄出身の若い女性だった。
伝統は人から人へ。
その手渡しの間に立てた事が嬉しかった。




Bandcamp

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それからBASEでは沖縄の職人さんたちと協働で作った三線↓

BASE

私は家宝級と言っていますが、アート関係の友人はこの三線を見て。

『国宝になるね!』と。


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